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昭和・平成・令和の思い出


生物学コース 井上雅裕 


この春定年となり、御挨拶の機会を頂いた同窓会会長の仲田秀雄先生と同窓生・教職員の皆様に深くお礼申し上げます。

 昭和63年3月16日に文部教官助手として採用頂き、33年間皆様と共に理学部での教育研究に携わることができました。これが今一番の喜びです。逆に、未熟な面が多く皆様にも随分ご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。今、昭和時代まで遡って振り返りますと様々な事を思い出しました。自分のたわいない話で恐縮ですが少しお伝えいたします。

S63(1988)年は新人の年として最も変化と衝撃の大きな年でした。前任地のUC Davisから帰国の際、Vegetable Crops学部のChairmanであったD.J. Nevins教授とSylvia夫人にご親切に私と荷物を自家用車で運んで頂き、SFO空港で「Lab以外何処にも行けなかったので次は!」と言って送り出して頂きました(後にこれは叶います)。松山空港に着きますと今度は当時の生理学講座教授の村山徹郎先生が迎えに来てくださっていました。お互い初対面で、Davisの友人から貰った麦藁帽子を目印に立っておりますと、「君が井上くんかね」と声をかけられ「ハイ」と答えたように記憶しています。これが私にとって新天地松山での第一声・第一歩でした。同研究室には城尾昌範先生と遠山鴻先生が1スパンの相部屋におられ研究や事務手続、下宿探しなど全部お世話になりました。私の部屋兼実験室として生理第3実験室(2スパン)をご用意頂きその全部を占有できるという過分の贅沢を与えて頂き、研究を無事スタートアップできました。流しの横の実験台に電気泳動やHPLC装置を置きアスピレーターも設置、石川優先生が使われていた木製のガラガラ硝子本棚を発生から頂いて植物培養庫に改造、後に約1畳の暗室も増設しました。窓の内外では水野信彦先生がハトトリックを仕掛けられるまで鳩がいつもポッポと人懐っこく歩き回り、遠くには本部の建物、その向こうに緑深い御幸寺山さんが頭を出してこちらを眺めていました。机の上には野外実習でご尽力頂いた田端英雄先生の強い薦めで赴任旅費全部を出して買ったMac SE(+外付HD)がよく英語を喋っており、横にはImage W.J.がジージと音を立て往復していました。椅子の後には休憩用の木製ベンチもあり、フルセットで勝手気ままな天国のような生活でした。

当時は講座制で、生物関係では理学部4階に西から形態・生理・生態、5階に発生の講座や学生実習室がありました。今ミューズがある建物に教養部、中島に理学部附属臨海研究所があり、教職員間の交流も盛んでした。生理研究室には常時元気一杯の修士・卒研生がいて縦横の繋がりや和気藹々とした枠組みの中で楽しく過ごし、隣の生態研から男子学生もよく遊びに来ました。食事の時もよく一緒に「正美堂さん」に行きました。研究面でも、従来の「植物ホルモンと細胞壁」の研究成果を生物主催の5月の学会で発表させて頂いた後は別テーマ「酵母の重金属耐性」に専念することになり大きな転換期でした。初めて扱う酵母や器具などに戸惑いましたが、研究対象が蛋白質でしたので従来通りの分離精製に重きをおいて進められました。ある夜のこと、ある事情のため培養実験室で一夜を過ごしました。深夜の実験室はガシャガシャとやたらうるさく仮眠もできないまま静かな朝を迎えました。この時、実験材料である生物達の生命力・忍耐力にとても驚嘆しました。この様に、研究と補助、野外・室内実習などにだけ集中・専念しながら昭和〜平成初期の日々を過ごしました。平凡な毎日でしたが、その時の雰囲気と勢いが原風景や原動力となってこの33年間を支え続けてくれたような気がします。

H8年(1996)になりますと、理学部発足(S43)以来の大改組が待っており、従来の5学科(数物化生地)が3学科に再編され、教養部が廃止、大学院理工学研究科(MR, DR)が新設されます。当時の学部長小松正幸先生(委員長)から広報委員を命じられ「新生•理学部をどうアピールするか」について議論を重ねたことを懐かしく思います。昔から地学が大好きでしたので生物地球圏科学科(生地)の誕生を私が一番喜んだのではないかと自負していました。9年後に3学科時代は終わり5学科になりますがコースの壁さえなければ生地は理想の学科だったのではと今も思います。 H16年(2004)には国立大学法人法が施行され国立大学法人愛媛大学が始動すると同時に生物学科主任を拝命しました。以後、大学は3回の中期計画・目標期間(計18年)を経て現在に至りました。この時の劇的変化については私見を含め同窓会報で少し紹介しました。特に、H23年(2011.3.11)に東北大震災が起こりその甚大な影響と復旧活動で大学全体も大きな岐路に立たされました。私も55歳の節目を迎え、残り10年間で何が出来るかを強く意識し、国際学会、米国在外研究、エジプト大学間交流事業・海外留学生支援などに注力しました。結果、理学部の社会国際連携事業にも少しは関わることができました。令和へと移るH31年度(2019)からの2年間は研究教育評議員・副理学系長として微力ながら理学部運営や社会連携事業に携わらせて頂きました。理学部の社会貢献についても再考する機会を得ましたが、同年12月からのCovid-19拡大で以後2年間殆ど何も出来ない異例の事態でそのまま定年を迎えました。現在も自粛を余儀なくされる異常な状態が続いています。これらの災禍がいち早く収束し、元来の時空間・人間環境の中で和気藹々としたオフライン・オフマスクでの日常に戻れることを切に願っております。

 最後になりますが、私は今でも総合大学そして理学部の素晴らしいところは学部・大学院生、教職員の皆さんが和気藹々として自由に活発に交流や意見を行い、自立的な生活を満喫しながら研究・修学にも専念できるところ、そしてその成果が各自の総合力・体力・底力となって学界だけでなく社会活動、就職・将来設計など多岐に渡って活用・適用されてゆくところだと信じています。卒業生からそのような声を頂くことも多くあり、その度に「だよね」ととても嬉しくなります。卒業生の皆様におかれましては、是非、その理学部の魅力やそこで育まれた強みを活かし、知力と理性・体力・生命力をフルに発揮され、今後益々ご活躍されますことを願っております。私も日々の鍛錬を怠らず毎日を過ごして行こうと思いますのでどうかよろしくお願いします。