2021年度・2022年度末退職の先生方からのメッセージ
生物学コース 井上雅裕
この春定年となり、御挨拶の機会を頂いた同窓会会長の仲田秀雄先生と同窓生・教職員の皆様に深くお礼申し上げます。
昭和63年3月16日に文部教官助手として採用頂き、33年間皆様と共に理学部での教育研究に携わることができました。これが今一番の喜びです。逆に、未熟な面が多く皆様にも随分ご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。今、昭和時代まで遡って振り返りますと様々な事を思い出しました。自分のたわいない話で恐縮ですが少しお伝えいたします。
S63(1988)年は新人の年として最も変化と衝撃の大きな年でした。前任地のUC Davisから帰国の際、Vegetable Crops学部のChairmanであったD.J. Nevins教授とSylvia夫人にご親切に私と荷物を自家用車で運んで頂き、SFO空港で「Lab以外何処にも行けなかったので次は!」と言って送り出して頂きました(後にこれは叶います)。松山空港に着きますと今度は当時の生理学講座教授の村山徹郎先生が迎えに来てくださっていました。お互い初対面で、Davisの友人から貰った麦藁帽子を目印に立っておりますと、「君が井上くんかね」と声をかけられ「ハイ」と答えたように記憶しています。これが私にとって新天地松山での第一声・第一歩でした。同研究室には城尾昌範先生と遠山鴻先生が1スパンの相部屋におられ研究や事務手続、下宿探しなど全部お世話になりました。私の部屋兼実験室として生理第3実験室(2スパン)をご用意頂きその全部を占有できるという過分の贅沢を与えて頂き、研究を無事スタートアップできました。流しの横の実験台に電気泳動やHPLC装置を置きアスピレーターも設置、石川優先生が使われていた木製のガラガラ硝子本棚を発生から頂いて植物培養庫に改造、後に約1畳の暗室も増設しました。窓の内外では水野信彦先生がハトトリックを仕掛けられるまで鳩がいつもポッポと人懐っこく歩き回り、遠くには本部の建物、その向こうに緑深い御幸寺山さんが頭を出してこちらを眺めていました。机の上には野外実習でご尽力頂いた田端英雄先生の強い薦めで赴任旅費全部を出して買ったMac SE(+外付HD)がよく英語を喋っており、横にはImage W.J.がジージと音を立て往復していました。椅子の後には休憩用の木製ベンチもあり、フルセットで勝手気ままな天国のような生活でした。
当時は講座制で、生物関係では理学部4階に西から形態・生理・生態、5階に発生の講座や学生実習室がありました。今ミューズがある建物に教養部、中島に理学部附属臨海研究所があり、教職員間の交流も盛んでした。生理研究室には常時元気一杯の修士・卒研生がいて縦横の繋がりや和気藹々とした枠組みの中で楽しく過ごし、隣の生態研から男子学生もよく遊びに来ました。食事の時もよく一緒に「正美堂さん」に行きました。研究面でも、従来の「植物ホルモンと細胞壁」の研究成果を生物主催の5月の学会で発表させて頂いた後は別テーマ「酵母の重金属耐性」に専念することになり大きな転換期でした。初めて扱う酵母や器具などに戸惑いましたが、研究対象が蛋白質でしたので従来通りの分離精製に重きをおいて進められました。ある夜のこと、ある事情のため培養実験室で一夜を過ごしました。深夜の実験室はガシャガシャとやたらうるさく仮眠もできないまま静かな朝を迎えました。この時、実験材料である生物達の生命力・忍耐力にとても驚嘆しました。この様に、研究と補助、野外・室内実習などにだけ集中・専念しながら昭和〜平成初期の日々を過ごしました。平凡な毎日でしたが、その時の雰囲気と勢いが原風景や原動力となってこの33年間を支え続けてくれたような気がします。
H8年(1996)になりますと、理学部発足(S43)以来の大改組が待っており、従来の5学科(数物化生地)が3学科に再編され、教養部が廃止、大学院理工学研究科(MR, DR)が新設されます。当時の学部長小松正幸先生(委員長)から広報委員を命じられ「新生•理学部をどうアピールするか」について議論を重ねたことを懐かしく思います。昔から地学が大好きでしたので生物地球圏科学科(生地)の誕生を私が一番喜んだのではないかと自負していました。9年後に3学科時代は終わり5学科になりますがコースの壁さえなければ生地は理想の学科だったのではと今も思います。 H16年(2004)には国立大学法人法が施行され国立大学法人愛媛大学が始動すると同時に生物学科主任を拝命しました。以後、大学は3回の中期計画・目標期間(計18年)を経て現在に至りました。この時の劇的変化については私見を含め同窓会報で少し紹介しました。特に、H23年(2011.3.11)に東北大震災が起こりその甚大な影響と復旧活動で大学全体も大きな岐路に立たされました。私も55歳の節目を迎え、残り10年間で何が出来るかを強く意識し、国際学会、米国在外研究、エジプト大学間交流事業・海外留学生支援などに注力しました。結果、理学部の社会国際連携事業にも少しは関わることができました。令和へと移るH31年度(2019)からの2年間は研究教育評議員・副理学系長として微力ながら理学部運営や社会連携事業に携わらせて頂きました。理学部の社会貢献についても再考する機会を得ましたが、同年12月からのCovid-19拡大で以後2年間殆ど何も出来ない異例の事態でそのまま定年を迎えました。現在も自粛を余儀なくされる異常な状態が続いています。これらの災禍がいち早く収束し、元来の時空間・人間環境の中で和気藹々としたオフライン・オフマスクでの日常に戻れることを切に願っております。
最後になりますが、私は今でも総合大学そして理学部の素晴らしいところは学部・大学院生、教職員の皆さんが和気藹々として自由に活発に交流や意見を行い、自立的な生活を満喫しながら研究・修学にも専念できるところ、そしてその成果が各自の総合力・体力・底力となって学界だけでなく社会活動、就職・将来設計など多岐に渡って活用・適用されてゆくところだと信じています。卒業生からそのような声を頂くことも多くあり、その度に「だよね」ととても嬉しくなります。卒業生の皆様におかれましては、是非、その理学部の魅力やそこで育まれた強みを活かし、知力と理性・体力・生命力をフルに発揮され、今後益々ご活躍されますことを願っております。私も日々の鍛錬を怠らず毎日を過ごして行こうと思いますのでどうかよろしくお願いします。
数学・数理情報コース 土屋卓也
早いもので、1990年12月に愛媛大学に赴任してから32年以上経ち、私もついに退職する日が来てしまいました。
若い頃はピンと来なかったのですが、いざ自分の番が回ってくると、「パワハラ・アカハラ・セクハラ騒動も起こさず、無事に退職できて本当にありがたく、めでたい!」という感じです。心苦しい点があるとすれば、生来の怠け者ですので、特に理学部の事務の皆様には、提出物の遅れ等で多大なご迷惑をおかけしたのではと思っております。どうも申し訳ありませんでした。
まずは、私を愛媛大学に呼んでいただいた愛媛大学名誉教授の山本哲朗先生に、心からの感謝を申し上げたいと思います。山本先生には、いろいろな場面で大変お世話になりました。特に数回の国際会議の開催のお手伝いを通して、国際会議運営のあり方を始め、研究者としての心構えなど多くのことを教えていただきました。九州大学でご指導いただいた藤野精一先生、メリーランド大学でのアドバイザー Ivo Babuˇska先生と共に、山本先生は私にとっての人生の恩師の一人です。
32年余りの愛媛大学での生活は、総じて楽しいものでした。私の専門は応用数学、特に数値解析学というものです。平たく言うと、「計算機を使っていかに精度良く効率的に方程式を解けるか」を研究する分野です。信州大学理学部の卒業研究では、微分トポロジーを勉強していましたが、抽象的で少し馴染めない感じを持っていました。信州大学を卒業し九州大学大学院に入るときに、「(企業に)就職するのに有利かも」という理由で応用数学を専攻することにしました。なんとなく選んだ分野ですが、偶然にも私の好みと能力にぴったりで、この分野を選んだのは本当に幸運でした。 私の研究分野の対象(の一つ)である数値シミュレーションとは、物理現象を支配する偏微分方程式を数値的に解くことです。その際、どのように微分方程式を計算機に乗るような有限次元の方程式に変換するか(このような操作を“離散化”といいます)を考える必要があります。そのためには、関数解析学を基礎とした偏微分方程式論を勉強し、さらに応用数学的な数値解析学を学び、その上プログラミングを勉強して実際に動くコードを書く必要があります。幅広い予備知識が必要で、最初は大変でした。しかしある程度まで勉強すると、数値解析学が純粋数学の多くの分野と関連していることがわかってきて、俄然面白くなってきました。
数学、特に純粋数学は高度に抽象的です。しかし、数値計算は基本的には加減乗除のみを使って、抽象的な対象物を“具体化・実体化”してくれることがあります。例えば、1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + … を計算してみると、200年以上前にオイラーが発見したように値はπ^2⁄6に収束していきます。知識としては知っていましたが、実際に自分で計算してみると何か不思議な感じがしました。以前何かの記事を読んでいると、かの大数学者ガウスは、何か新しい定理を発見すると必ず数値計算でその定理を確認していたと書いてありました。多分ガウスも、同じようなことを味わったのではないでしょうか。
極小曲面などの偏微分方程式の解や特殊関数の特殊値など、多くの抽象的な対象が数値計算を通して具体化されていく過程や、また逆に数値計算のアルゴリズムの正当性や効率が抽象的な数学できちんと証明されていく過程がとても面白く、大変楽しい研究生活でした。またプログラミング自体もそれなりに面白く、自分に向いていたようです。 とはいえ、30年以上の大学生活はそれなりに山あり谷ありでした。研究が行き詰まることもありましたし、また学科長をやっていた時は、なかなか頭の中が「数学脳」に切り替わらず、論文が書けない時期もありました。しかし、時々は(単打ですが)ヒットを打つことができ、特にここ10年ぐらいは若い人たちと共同研究をして、とても楽しかったです。よくゆう共同作業で「ケミストリーが起こる」とはこういうことかと思いました。特に、2010年ごろからとても面白い研究テーマに出会い、充実した毎日でした。
数学の研究は、パソコンと文献へのアクセスがあればできるので、退職後もこれまでの研究をこつこつと続けたいと思います。そしてあまり歳を取りすぎないうちに、自分の最近の研究を書籍などにまとめたいと思っています。やはり、多数の論文に散らばって書かれたストーリーを追っていくのは大変なので、多くの人に自分の研究を読んでもらうには、書籍にまとめた方がいいと思うからです。
これからの日本や世界がどうなっていくのか、先行き不透明な状況です。しかし、このような状況でも、皆様のご努力で愛媛大学理学部の発展していくことを期待して、私の挨拶といたします。どうも、ありがとうございました。
物理学コース 宗博人
ひょんな事から四国(愛媛大)に赴任したのは、単なるうっかりであった。以下は事実で今でも嫁さんに揶揄されるが人に話してもネタとしか思ってもらえない。
何がひょんな事かというと、僕の前任地(新潟)と嫁さんの勤務地(川崎)が遠いので、お互いに「もっと近い所に移れるといいね」と言っていた。新潟から川崎は、新幹線+電車で3時間くらい。
ところで、四国からは羽田便がある飛行機だと飛行機+電車で2時間半くらいなので、「近いじゃん。」という事で、愛媛大の公募にアプライした。
これが嘘のような本当の事で、赴任当初は地理的にも実際の時間も(飛行機は乗るのにも降りるのにも余計な時間がかかる)遠い事が分かって嫁さんからチクチク皮肉を言われていた。 しかし、遠い事は悪い事ばかりではない。時間の流れが今までと違って研究にも教育にもじっくり向き合うようになった。特に研究面では、週末に近くの喫茶店で何時間も居座って考えたり、一心不乱に計算したりした結果、今まで思ってもみなかったアイデアが浮かんできた事が度々あった。都会で何時間も喫茶店にいると「注文するか退店」を促される。そうすると折角浮かびかけたアイデアが消えてしまう。結論的に言うと、自分の研究スタイルにはこの松山の環境は適していたと今では思っている。 また、嫁さんもよく「夏の暑い時期が長いのを除けば松山は季候がいいよね。」と言ってる。確かに夏はエアコンの部屋にいないと頭が溶けそうでそれが10月まで続くのは閉口であるが、それ以外は確かに雨が少なく近くをドライブするのもいい。それに冬の時期は、毎日どんよりの雲が垂れ下がって強風が吹きまくる前任地よりも遙かにいい。
人間関係についても述べたい。人というものは流行の言葉で「多様性」を持っているので、いろんな人がいるものである。愛媛大の学生さんも教職員の方も。従ってすべてが良かったなどというと無責任でかつ自分が耄碌しているような気がするので、そうは言いたくはない。いろんな経験が自分の刺激になった事だけは事実なので、それは言っておく。
それよりも松山の人で驚きだったのが、「優しい」ことである。自分が借りている駐車場の場所を一度だけ間違えた事があって、自分の車を隣の別の利用者(毎日車を使っている)の駐車場に止めて、それが何週間も気づかずに続いていた事があった。その隣の人は、逆の隣の場所(そこは契約者がいない)に車をとめて、僕とすれ違っても文句の一つも言わないのである。一月くらい過ぎてやっと自分が場所を間違えた事に気づいて、元の場所に移動し、たまたまその人に会った時に謝ったら、「はあ」という簡単な返事で驚いた事がある。僕だったら苦情の一つも言いたくなる。
その後その人は元の場所に車を移動して、元の鞘に収まったのだけど、何か居心地が悪いまま過ごした。また自転車の鍵をかけ忘れても自転車を盗まれた事はないし、これって、松山の人の性格なのでしょうかね。まあ確かに16年も住んでいると色んな事があるもんですね。でも、今度定年退職する事になって良かったと思う事の一つに、段々、自分のオフィスの乱雑さがひどくなっているので、これ以上この部屋にいると窒息しそうだし、離れる時にきれいにするのも大変そうだと懸念していたタイミングでの退職なので結果オーライである。折角なので、感想だけではなく学問(物理学)についても一言述べたい。
先日ネットで「科学は人を幸せにするか」という感じの討論番組があった。それを見ながら奇妙な感じを抱いた。他の学問はよく分からないので、以下対象は物理学に限らせていただく。技術は人を幸せ(もしくは不幸)にする可能性はあるし、その基本知識は科学に基づいているのも確かである。
僕は学問(物理学)はそれに関する人の活動も指すのは尤もだが、その結果である自然の法則を指すと思っていた。つまり、学問(物理学)は自然そのものなので、人類の幸福や不幸とは別の次元の存在のように思えるのである。なので、ネットでの討論番組を違和感を持って見ていた。まあえてして「科学」と「技術」を混同して使いがちなので、そんなに目くじらを立てる必要はないのかもしれない。
最後に言いたいことは、「物理とは」や「科学とは何か」をじっくり考えさせられた「時間」をここ松山で愛媛大で与えられたことは幸せな16年間だったと思う。
化学コース 佐藤久子
人生はよく大海原を航海する船に例えられます。私のこれまでの航海は、次から次へと荒波に遭遇するかなりダイナミックなものだったと思います。
見方によっては、いつ海に投げ出されるかもわからないぎりぎりの綱渡り航海でした。2002年45歳で会社を退職してポスドク研究員となりました。先の見通しもなく毎年身分と研究場所の確保に明け暮れていたころ、2009年に愛媛大学理学部化学科(大学院理工学研究科)の准教授に採用されました。最初の挨拶では、生まれ故郷(現在の協働センター南予が私の小学校)が近いことも述べさせていただきました。前任の東長雄教授がネーミングされた複合体化学研究室の名前をそのまま引き継ぎました。自分の研究室と自分の名前のはいった郵便箱を持てた喜びを本当に噛みしめました。翌年2010年には教授に昇進させていただき、一層の責任を感じて身の引き締まる思いでした。そして今は、なんとか定年退職が近づいて来たという感慨が迫って来ます。
愛媛大学に赴任してからの研究の中心テーマは、右手左手の関係のような分子不斉(キラリティ)に関係するものです。ゲル、分子結晶、多核金属錯体にみられるような多数の分子が連結することによって現れる不斉構造(“超分子キラリティ”と呼んでいます)に着目し、その解明のためのキラル分光法の研究を行ってきました。中でも赤外領域のキラリティを調べる赤外円二色性分光法に着目しています。この装置をさらに生体試料をそのまま測定できる装置にしたいと外部資金に申請しては不採択を繰り返してきました。やっと定年近くに採択された外部資金で世界に例のない唯一の装置を完成させることができました。正に“描いていた夢”が実現したということでしょうか。多くの共同研究者のおかげで装置が完成し、成果を発表することができ、最後に研究活動で学長賞をいただくことができました。
研究室を閉めるにあたって、1年くらい前から一つ一つの装置にお別れをしているところです。苦労を共にしてきたある意味自分の分身のような装置たちにはどの装置にも私の想いが詰まっています。私の気持ちそのままに装置も調子がよかったり、エネルギーが下がったりします。その時々のことを思い出しながら、事務の方々に助けていただき片づけています。メーカーさんからは、私が特注設計した装置が最近になって、ニーズがでてきたと聞いてとてもうれしく思いました。その後外部資金に採択されるたびに少しづつバージョンアップを続けてきましたので、愛着もひとしおです。「あれからもう10年とは早いものだ」とメーカーさんもなんだか感慨深げでした。
福島第1原発の事故に関しては粘土科学の側面からなんとかしなければとの思いでやってきました。共同研究者の方々と福島の地でミニプラントを立て、土壌からのセシウム除去の実証実験を行ったことも忘れることができません。私にとって初めてのフィールドワークで、これまで味わったことのない経験をさせていただけましたが、まだまだ難しい問題が山積みです。
つらい時期に実験をしていると、新しい現象を自らの手でみつけることができたことなどもありました。今振り返ってみますと、そんな時期は学外の共同研究者や化学教室を始め愛媛大学内の共同研究者のおかげで乗り越えることができたと思っています。愛媛まで多くの研究者やその研究室の学生さん達が来てくださり、研究という形で私を支えていただきました。おかげ様でひとつひとつの思い出を論文という形にして、世の中にだすことができました。複合体化学研究室を立ち上げてから少ない人数ですが、学生さんを指導できて、実社会に送り出すことができましたことは私にとっての財産です。たった一人の博士号をもつ学生さんを育成でき、彼をアカデミックポストにつけることができましたことも私の大きな喜びです。彼が、私の研究を引きつぎ発展してくれることを願っています。
現在もコロナによる研究活動の制限など想像を超えることばかりが続いています。量子化学の授業担当が遠隔授業から始まり、教えることの難しさは赴任以来、未だ尽きることのない私の悩みの種です。管理運営面では広報委員長、社会連携委員長、キャリア委員、研究コーディネーター、女性未来育成センター委員、日本化学会の委員などで種々の行事の事務などやらせていただきました。最後の2年間コース長を拝命していますが、至らぬことばかりで、私を支えてくださっている化学教室の先生方々や事務の方々に本当に感謝しております。社会連携に関連しては愛媛県庁の環境政策などの委員や委員長、科学技術振興機構のプログラムオフィサー、環境省環境研究推進委員会委員、日本学術振興会の科研費委員などをさせていただきました。
最後にぜひとも理学同窓会の皆様にお伝えしたいことを記します。本年度大学院組織が改組されました。社会人修士課程や博士課程に興味をある方がおられましたら、ぜひとも愛媛大学でキャリアアップの路を目指しませんか?私の時代には社会人のための大学院はまだありませんでした。そのような中で企業で働きながら、35歳で博士号を取得することができました。今は制度も整ってきております。ぜひともこの制度を活用してキャリアアップにつなげてほしいと思います。この苦しい時代だからこそ、今まさにそのチャンスではないでしょうか?
私自身は信じられないことに、定年を前にして、初めての分野の新しいテーマで科研費に採択されました。新しいことを楽しみながらチャレンジできることに喜びを感じます。理学部の皆様にはまだご迷惑おかけするとは思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 最後に理学同窓会がますます発展されることを願っております。
生物学コース 中島敏行
2023年3月に退職の日を迎えることになります。私が愛媛大学理学部に赴任したのが1999年4月ですから,およそ24年が経ちました。
この間いろいろなことがありました。研究では好きなことを自由にやらせてもらい,教育では学んでいるのは実は自分であることを気づかされる日々でした。
私の研究分野は生物学ですが,あえて分けると二つあります。一つは,生物進化の仕組みを実験と理論の双方から明らかにすることです。多くの進化の研究では既に進化した現生の生物を調べて行うのが主流ですが,世代時間の短い生物を実験室で進化させてその過程や仕組みを調べる手法(実験進化)があります。私の場合は,微生物を用いたモデル生態系を作り,生態系の中で構成種がどう進化するかを解析していきました。世代時間の短い微生物といえども長い時間かかります。13年間の長期培養と分離した多くの変異株の性質やDNAをコツコツ調べていき,退職の日ギリギリまで解析は続きましたが,どうにかまとめられる段階にこぎつけました。この研究では「生態系という全体が構成種の環境を作り変化させ,それらの進化を誘導していく。それにより生態系の物質とエネルギーの流れの構造が変化して生態系自体も進化する」という結論にたどり着きました。もちろんメンバーである個々の生物側の進化的アクションがあっての進化ですが,全体が部分を “そうさせる” という側面を実証的に浮き彫りにできたと考えています。自然現象には境界がなく研究は容易に自分の専門領域を超えましたが,生物学科の同僚との共同研究など研究室間の垣根が低い理学部の文化のおかげで進めることができました。また,講義や研究指導の中でも自分がよく理解できていないことや新しい問題に気づくことがよくありました。研究と教育は同じコインの裏表かもしれません。
ところで,ここ3年間は新型コロナウィルスによって,大学も社会生活も随分悪影響を受けました。新型コロナのパンデミック真っ只中の頃は,私が担当する「進化生物学」の講義では,コロナウィルスの派生株の系統樹を紹介して進化過程の説明に用いたり,共生の進化を教える箇所では毒性の強い病原ウィルスは適応進化の結果として弱毒化する仕組みや事例を紹介し,新型コロナは良い教材にもなりました。もっとも,弱毒化の兆しがまだ見えない頃の試験の答案には「講義で言っていたような弱毒化はまだないようだが・・・」などと疑っている学生もいましたが。このパンデミックもようやくワクチンや感染による免疫保有人口が増え,予想した通りウィルスの弱毒化も見られ,出口はもうすぐのようです。このパンデミックはあらためて人間同士の対面での付き合いの重要性を教えてくれましたが,同時にオンライン会議という道具を普及させた正の遺産も残したと思います。
私の二つ目の研究分野は「生命とは何か」というかなり基礎的な分野です。私は生命系における事象の確率や情報の理論の切り口から研究をしてきましたが,同時に生物哲学の観点も好きで,この両面から取り組んできました。若い頃はこの研究を“こっそり”やっていたのですが,ありがたいことに愛媛大学では堂々と取り組むことができました。着任時に辞令を下さった当時理学部長の小松正幸先生(後に本学学長)は,ぜひ理学部でそのような研究や考え方を継続して広めてくださいと仰ってくれました。「何ていいところに来たのだろう」とその時感激したことを今でも鮮明に覚えています。
京都の哲学の道は有名ですが,私の哲学の道は理学部の裏門を出て道後温泉につながる水路沿いの “にきたつの道” です。集中できないときや考えに行き詰まったときに,水の流れを見ながら何度もこの道を歩きました。大学に赴任した当時は水路にはナマズを何匹か見かけたのですが今はもう居りません。水路を覗きながらこの道を歩き,道後商店街にあった喫茶店(今はなき ”なも”)に向かうのです。コーヒーを飲みながら1時間ほど考え,ある程度の壁は突破できたような気分になったところで,また同じ道を戻ります。いずれの研究テーマおいてもこの道を歩きながらいろいろなことを考えました。
この原稿を書きながら愛媛大学での出来事を振り返ると,思うように行かなかったことや意外とうまく行ったことが織り交ぜられて思い出されます。人生は選択の連続といいますが,自分が世界の次の状態を選択できるわけではありません。自分の選択と物質を含む自分以外のあらゆるもの達の選択により世界の次の状態が決まり,未来がつくられるのでしょう。だから,ままならないことも多いわけです。アドラーの心理学でしょうか,私が好きな捉え方があります。過去の事実は変えられないがその解釈は変えられる,そしてその新しい解釈で未来は変えられる,というものです。在籍中には学生,職員,教員など様々な方に助けられてきました。この場を借りてお礼を申し上げるとともに,皆様がより良き未来を築かれることを願っております。
データサイエンスセンター 中川祐治
理系・文系という区分けが明治時代の富国強兵に基づく分類であることを知っている人は少ないと思いますが、ここでは理系の中でも「理学」と「工学」の違いについてお話ししたいと思います。
私が大学院を出て、最初に就職したのは(株)富士通研究所で、社員には当然工学部出身の方が大勢おられ、理学部出身者は一握りでした。入社一年目の新入社員研修で私に課せられたテーマは三次元グラフィックス装置の開発という、当時どのコンピュータメーカーも作っていないものを作るというなかなかハードな仕事でした。メーカーで開発を行うには、研究所以外にハードウェア部門とソフトウェア部門、さらに製品の一貫性を担保する必要があるため、社内規格を担当する部署が加わり、総勢十数名のチームを束ね、ほぼ毎週ミーティングを行っていました。私の役割は、三次元グラフィックスを描画するアルゴリズムの開発とチームをまとめ動かすことです。これは後で分かったことですが、一年後の新入社員研修発表会の席で社長から「これは新入社員研修ではないですね。」と言われ、そのときは何の意味かわかっていませんでしたが、管理職候補試験のレベルだったようです。 さて、話を本題に戻しましょう。チームミーティングは週に一回ありましたが、その間は研究所内のグループで勉強会とアルゴリズム開発の進捗状況報告を積み重ねており、特にアルゴリズム開発では、私の所属しているグループの工学部出身のリーダーと意見を戦わせることが度々でした。リーダーの言っていることは確かに正論で早く結果が出るのですが、『何か違う』という思いがいつもあり、これは一体何なんだろうと悶々としていました。 約4年で(株)富士通研究所を退職し、その後は鹿児島大学、国際基督教大学、そして愛媛大学へと計3回の退職を経て現在に至っています。これは余談ですが、退職にあたって毎回退職願を書かされましたが、(株)富士通研究所だけは毛筆で書くように指示され、字が下手な私にとっては嫌がらせとしか思えませんでした。 今から5年ほど前に、理学部数学科の学生向けに「お茶会」というなんでも喋れる集会があり、その講演を頼まれた時に理学と工学の違いについて、改めて考え直す機会が与えられました。その時にたどり着いた結論は、問題解決のアプローチの違いであることに気がつきました。つまり、工学系出身者の考え方は試行錯誤をなるべく少なくして短いステップで結論(製品)に到達することで、一方、理学系出身者の考え方は原理追求を経て結論(特許・原理)に到達する、という違いがあるということです。この違いに気がついたとき、かつてのモヤモヤが一気に解決した気分でした。 学部や大学院を出て就職した時に、ほとんどの企業では工学系出身者がマジョリティで、理学系出身者はマイノリティとなりがちですが、そこで挫けてしまうのではなく、時間がかかっても原理追求を諦めず、社会(企業)にとって本質的に重要となる原理を見つけて行く努力を重ねて行くのが理学系出身者の使命だと思います。卒業生みなさんのご活躍を期待しています。
数学・数理コース 平出耕一
10年ひと昔という表現をだいぶ前に聞いたことがあるが、ネットで調べてみると、5年をひと昔前と感じる人が一番多く、次いで3年で、10年をひと昔前と今でも考えている人の割合は3番目になっている。確かに5年は一つの区切りになりそうで、科研費の申請では、5年は最長の研究期間で、3年はほぼ最短になっている。理学部で以前発行していた「教育・研究のあゆみ」も5年ごとだった。しかし、この5年とか3年とかは、連続的に流れる時間の短い一つの単位だと思う。それに対し長めの時間の一つの単位として10年があるように感じる。このくらいになると物事は随分と変化する。大学に入学してから大学院を経て就職するのに大体10年かかったし、大学院での研究テーマに一つの終止符を打つのに更に10年くらいかかった。更に10年ほど研鑽を積んだが、このくらい経つと、辞書や本に引用されるようになってきて、国内外問わず世の中に知れ渡ってしまう。数学のような辛辣な学問は、頑張ったとしても、そのくらいの年齢で研究を止めるのが普通だと思っていた。今から30年ほど前、筑波大学から異動してきたが当時もそう思っていた。送別会のとき、少し大袈裟に、あと20年頑張りますと宣言した覚えがある。その時はそれほど本気ではなかったけれども、まさか逆に更に10年も追加されるとは夢にも思わなかった。そもそもその頃は、若手という明確な概念がなく、34歳までが少し優遇されていた時代で、科研費の申請も奨励研究というのがあって37才までで、それを過ぎると今でいう基盤研究で申請しないといけなかった。しかも研究期間は1年と定まっていた。ある意味、結構のんびりとした時代だった。その若手の頃、研究集会に参加するための交換条件で、北海道大学であった国立32大学の会議に出たことがある。情報交換の場だったが、メインが東京大学数理科学研究科の設置についての詳しい説明であったが、1人参加だったのでメモを取るのが大変だった。その内容は教室に持ち帰って少しは役に立ったと思うが、その頃から以降、全ての国立大学はものすごく大きく変わっていくことになり、15年くらい経過して、ついに法人化されてしまった。これは、丁度バブル経済の崩壊からリーマンショックの手前までの期間に起きたことで、その後もゆとり教育というのが続いていった。この様な中で、動き変化するのを止めると、倒れて消滅してしまうという仕掛けを組み込まれたような感じである。最近では、GとLによる大学間の差別化、年俸制導入など極まりを見せているが、これから先30年の間に何が起こるかは誰にも予測できないだろう。人工知能との関係でシンギュラリティを唱える人がいるが、それは今から30年後には既に起こっている出来事である。30年を時間の単位としてみると、社会環境はとてつもなく大きく変わったし、今後も変わるだろう。しかし、この30年で見ると、数学に対する研究態度がぶれることはなかった。そして、研究内容はどんどん発展している。研究対象も以前からの力学系の定性的研究を継続しつつ、今は加えて定量的研究も行い発展的に展開している。やはり、数学の研究の辛辣さは常套ではない。とても体力を必要とするし、それを持続しつつ、発展し続けなければならない。これは、数学の普遍性がもたらす必然だと思う。これからも真剣な態度で数学の研究を続けたい。
化学コース 長岡伸一
令和3年3月に大過なく定年退職を迎えることができました。これもひとえに在任中にお世話になった学部長をはじめ教員の皆様、職員の皆様、学生大学院生諸君、同窓会の皆様のおかげと心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
私は、京都大学理学研究科を修了後、北海道大学応用電気研究所(現在は電子科学研究所)、岡崎国立研究機構(現在は自然科学研究機構)分子科学研究所を経て平成元年10月16日に愛媛大学理学部に転任して参りました。前任地の事務職員からは、転任日が中途半端な16日なので転任翌日の17日には月給が支給されず、11月17日に合算されて支給されるであろうと言われて転任して参りましたが、意外にも10月17日にきちんと給与が全額支給され、愛媛大学の事務組織がしっかり機能していることを思い知らされました。それ以来、退職に至るまで理学部職員の皆様にがっかりさせられたことはありません。誠にありがたいことでした。
理学部では、それまでに行ってきた化学反応の電子状態依存性の研究である励起状態での分子内プロトン移動反応や内殻励起によって分子内の特定の原子付近だけで起こる反応の研究に加えて、抗酸化反応の研究をさせていただきました。特定領域や重点領域の科研費が採択されて学生院生諸君とともに愛知県岡崎、茨城県つくば、兵庫県佐用のような日本のみならず、日米科学技術協力事業で米国にまで飛び回りましたので、留守中には他の教員の皆様には大変ご迷惑をお掛けしたと思います。誠に申し訳ありませんでした。いずれの研究でも、学生院生諸君は愛媛県唯一の国立大学の学生院生として、想定外のプライドを持って卒業研究や大学院の研究に取り組んでくれました。その成果は二百数十報の原著論文にまとめましたが、まだ報告できていない研究もあり、退職後もしばらくは論文のとりまとめを進めてまいります。
教育では、量子化学や構造化学の授業などを担当し、特にPCを用いた分子軌道法の演習という新しい教育手法に取り組みました。その成果は、アメリカ化学会の教育専門誌などに掲載されております。量子化学を充分理解することは数学が得意でない学生院生には難しいですが、単に講義を聴いて紙と鉛筆で演習をするだけではなく、普及しているマイクロソフト・エクセルを利用してデジタル的に「手を動かす」ことによって理解を促進しようと考え、このような実習を開発しました。原子分子の世界はとびとびなのに、さらに世間はとっくに連続なアナログからとびとびのデジタルに変化したのに、量子化学の教育が今もって連続を前提とした微分積分によって記述されるシュレーディンガー方程式に基づいているのは残念の限りであり、私の在職中にできるだけデジタルの世界に近づけるように教育手法を改良することを志してきましたが、数理統計や確率を用いた量子化学の教育手法を確立するまでに至らず中途にて退職することになりました。
社会貢献や運営では、日本化学会速報誌編集委員、分子構造総合討論会(現在、分子科学会)開催事務局、ビタミンE研究会開催代表世話人、環境機能科学専攻長などを拝命しましたが、力不足で余りお役に立てずに多くの先生方に負担が掛かったことをお詫び申し上げます。
北海道大学に初めて就職してからも、愛媛大学においても、様々な別の大学にお招きをいただきながら最終選考では不採用を繰り返していたにもかかわらず、愛媛大学理学部にお招きいただいてそのままずっと拾ったままでいただいたことに心より感謝いたしております。前任地から転任の折には、王昌齢の「洛陽の親友もし相問わば一片の氷心玉壺にあり」と唐詩選を引用しました(分子研レターズNo.23)。愛媛大学を去るに当たってどのような言葉を残したら良いのか迷っています。学生時代から「田舎の勉強よりも都の昼寝」と言われて教育されてきましたので、社会資本のより充実と大学環境のさらなる整備は期待したいところです。時代が変わっても大学教員に最後に残るのは研究成果でしょう。私は理学部研究奨励賞などいくつかの賞をいただいたとはいえ、会心の研究成果が乏しかったことは実力不足でお詫びする以外にありません。しかし、転任以来毎年友人たちが「松山詣で」と称してじっくりと研究を語り合うために訪ねてくれ、多くの論文にまとめられたのは良い思い出です。
最後に、多くの方々に支えられて退職を迎えることができたことに心より感謝を申し上げるとともにご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げ、さらに黙々と尽くしてくれる妻にありがとうと言って愛媛大学を去るに当たっての言葉とさせていただきます。末筆になりましたが、愛媛大学理学部のさらなる発展と皆様のご活躍を念じております。ありがとうございました。
生物学コース 大森浩二
1983年4月に、フェリーに乗って、四国に上陸し、愛媛大学理学部に生物学科の助手として赴任しました。その頃の愛媛大学の大学祭で、正門の上に大きな瀬戸大橋の模型が飾られていたのを覚えています。開通したのはその5年後のことでした。大学院博士課程の途中から赴任したため、初めの数年は博士号取得のために九州天草(九州大学の臨海実験所所在地)へ通い、最後に国内留学をさせていただき、九大理学部から「干潟に生息するヨコエビの個体群動態論」により理学博士を頂きました。愛媛では、重信川河口の干潟で汽水性生物の研究を続けることとしました。この頃、宇和島の遊子漁協からの依頼で愛媛大学(工学部、農学部、理学部)のグループとして宇和島湾の養殖による有機物汚染の調査をはじめ、水域生態系の持つ生産と分解のバランスの最適解を見つけ、それを沿岸漁場生態系の健全性の指標とするとの研究を行いました。これらの研究がもとで持続的養殖生産確保法が作られ、施行されたのが1999年でした。前後してこの研究チームを中心として沿岸環境科学研究センターが、新設されそこの構成員となりました(理学部へ赴任してから16年目の年です)。一方、海洋調査に加えダム湖・湖沼生態系、東南アジアでの人工マングローブ林の機能解析の調査も始めました。この頃からベトナムへマングローブ林生態系の調査に行くようになり、ベトナム国ハノイ大学の学生を大学院への留学生として受け入れ、数名のベトナム人に理学博士の学位を取得させることができました。その後学部新設に関わり、2016年、また、新設の社会共創学部の環境デザイン学科へ移り現在にいたっています(16年周期で別組織へ放り出されている?)。
ここまで、現実の人間社会にどっぷりとつかった生態系の研究をつづけながら、生物進化科学、その中心的課題である種分化理論に20年前から取り組んでいます。
1858年出版のダーウィンの「種の起源」を土台としたネオダーウィニズムの、与えられた環境において、ランダムな変異から生まれた、高い適応度を示す遺伝子を持つ個体が生き残るという自然選択 (Natural Selection) 説が、現在、生物進化の原動力とされている。ただし、ダ―ウインの「種の起源」では、自然選択による新たな種の形成過程を説明できず、それ以来、100年にわたり、多くの議論がなされたが、1960年代にマイヤーが種の形成は、地理的隔離による種個体群の分断化(=allopatric speciation)によるものが主とし、それが定説となった。ところが、過去5年間に全ゲノム解析が多くなされるようになってきて、共通の祖先種から分岐したと思われる2種の各ゲノムのうち、適応的形質の遺伝子群が先に分岐し、のちに、分岐する二つの個体群間の遺伝子交流の減少に伴い、中立的な遺伝子群が分岐する例が普通に見られた。これは、地理的な隔離なし(= sympatric)、または、隔離が弱い(= parapatric)場合における種分化が普通に起こっていることを示しています。
祖先種から新たな種への変異が生じる種分化のごく初期の段階で、既存の種分化モデルは、新たに形成される種が占有する新たなニッチェへのほぼ完全な選好性のアプリオリな遺伝子変異(=かなり無理があると考えられる)を暗黙の裡に仮定している。しかし、この「ほぼ完全な選好性」という前提が崩れると地理的隔離なし、または、弱い場合の種分化が成立しなくなることが私の種分化モデル解析から証明できている。全ゲノム解析の研究結果から、地理的な隔離なし、または、隔離が弱い条件下における種分化が普通に起こっているとすると、分岐のごく初期の段階において、(まだ構成されていないが、後の段階において構成されるであろう新しいニッチェへの)ニッチェ選好性遺伝子(群)を介さない、生物の主体的な認知能力(=ある基準(拡張された適応度の最適化と考えられる)により自らが選択される環境(= selection field)を選ぶこと:ただし、認知能力そのものはNatural Selection により進化した適応的な能力と考えられる)による新たなニッチェへの選好性、つまり、自律選択(Autonomous Selection)を考えざるを得ない、という結論に達したところで退職の年となる2019年の年度末を迎えたわけです。時間切れです。ただ、2022年3月まで、特命教授として現在所属の社会共創学部へ残ることとなっていますので、その間、この地上で最も高い(自律選択に必要な)認知能力をもつと自負する我々ホモサピエンスの、ホモハイデルベルゲンシスからホモサピエンスへの最後の種分化を題材とした、分析哲学や量子力学で唱えられた自由意志定理に基づく種分化理論の論文を発表していきたいと考えています。
38年間本当にお世話になりました。ありがとうございました。
地学コース 森寛志
私は1994年4月に理学部地球科学科に赴任して以来26年間という長い時間を充実して楽しく過ごし、こうして無事に定年を迎えられたのはこれまでに理学部で出会い、共に過ごした多くの皆様のお陰だと感謝しております。本当にありがとうございました。
理学部ですごした26年間を振り返るにあたって、私が地球科学に関わっていたこともあり、この間に起こった自然災害、中でも地震被害を目の当たりにした時に感じたことや考えたことを述べていきたいと思います。
私が前任地の東京から松山に赴任した次の年、1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。地震発生は早朝午前5時46分で、私が当時住んでいた東温市にある愛大横河原宿舎の3階でも地震の揺れに驚いて目を覚ましたのを覚えています。神戸という大勢の人が暮らす大都市を最大震度7の大地震が襲ったのは衝撃でした。阪神高速3号神戸線の橋脚が横倒しになった光景がテレビに映し出され、この地震の揺れがいかにすさまじいものだったかを物語っていました。神戸市長田区などの住宅密集地で発生した大規模な火災の被害も甚大でした。大都市でひとたび大地震が発生すると6000名を超えるような大勢の尊い命が一瞬で失われることを学びました。地震の被害の大きかった場所は、地震断層に沿った比較的狭い範囲に集中して長く伸びており、やはり神戸市の海岸に沿った埋め立て地などのいわゆる地盤の弱い場所でより被害が大きかったようです。これは地表に暮らす我々にとって地震の揺れの大きさを決める要因として地震そのものの規模以上に揺れに対する地盤の強弱がいかに重要であるかを改めて印象付けることになりました。
2001年3月24日の15時28分に芸予地震が発生しました。震源地は安芸灘で、震源の深さは50kmでした。松山市の震度は、震度5強と記録されています。この日は土曜日で、私は東温市の自宅の庭にいましたが、まわりの樹木や家屋がユサユサと揺れ始め、とても驚きました。私がこれまでに自身で直接経験した地震の揺れの中では最大のものでした。翌週の月曜日に大学に向かうと研究室のロッカーの扉が皆半開きになっており、まるで泥棒に荒らされたようになっていたのには驚きました。幸い家具が倒れたり、棚の中身が散乱したりというようなことはありませんでした。しかし、理学部本館の壁面のあちこちにX字のひび割れが生じており、震度5強の揺れがあったことが読み取れました。私の自宅は東温市にあるため、大学のある松山市より揺れが小さかったようです。もし理学部の建物内にいたら、かなり驚いて机の下に潜り込んでいたかもしれません。
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。地震そのものは宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震で、地震の規模を表すモーメントマグニチュードは9.0で、日本周辺で起こった観測史上最大の地震でした。この地震による巨大津波とこれに伴う福島第一原子力発電所事故による未曾有の災害が発生しました。1000年に1度という規模の大地震と大津波が私自身の生きている同時代に起きたというのはまさに衝撃的でした。太平洋から押し寄せた大きな水の塊が沿岸の町や人々の暮らしを次々に飲み込んでいく様子を写した映像は今でも私の脳裏に深く刻み込まれ、一生忘れることはないと思います。最も深刻な事態は、福島第一原子力発電所事故で、事故の後始末にはあと何十年かかるのでしょうか。原子力を含めたエネルギー問題や地球温暖化問題は、人類の抱えた難題です。21世紀も20年が過ぎようとしていますが、人類はこの問題にどのように立ち向かっていくのでしょうか。大学を定年になる年齢となった私は、これからの若い人たちに期待するしかないのが寂しい気持ちです。
2016年4月に熊本地震が発生しました。この地震の特徴は、震度7を観測する地震が4月14日夜および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回も発生したことです。大きな揺れを伴う大地震がこれほど立て続けに起こったことはこれまでにないことです。私も訪れたことのある熊本城が甚大な被害を受け、無残な姿がテレビに映し出された際には本当に悲しい気持ちになりました。
2018年9月6日に北海道胆振東部地震が発生しました。この地震の最大深度は7で北海道では初めて記録されたそうです。震源に近い厚真町ではおびただしい数の土砂崩れが発生し、その後グーグルアースを使って観察したその様子には驚かされました。
ここまで、私の記憶に強く残ったいくつかの地震災害を振り返ってきましたが、新しい地震災害が起こるたびに「これまでに私たちが経験したことのない」とか「予想しなかった」という言葉がいつも使われてきたように思います。これは地球と人間の活動のタイムスケールが何桁も異なるためであり、まさに自然なことだと思います。自然災害、特に地震災害はいつどこで発生するのか予測することができません。しかし、災害の発生に備えて常々準備しておけば、被害を最小限に抑えることができると思います。物質的な備えだけでなく、それ以上に心の備えが重要だと思います。これからも悲惨な自然災害は繰り返し発生するのかもしれませんが、その被害が少しでも軽く済めばと願っています。
地球深部ダイナミクスセンター 入舩徹男
平成元年4月に愛媛大学に赴任し31年。この3月末にはとりあえず無事に退職を迎えるはずでした。ところが我が国においても猛威を振るいだした新型コロナウイルス(以下コロナ)のおかげで、卒業式をはじめ様々なイベントがキャンセルとなり、気持ちの切り替えができぬままその日を迎えてしまいました。せめてもの慰めは、退職に際して関係者が「業績集」とは名ばかりの、立派な文集をつくってくれたことです。主に卒業生や学会関係者などを中心とした内輪の文集ですが、このような状況の中で何よりの記念となりました。本来はここに書くべき内容も、ほとんどこの文集に尽くされております。祝賀会等での配布機会を失い多数の残部がありますので、ご興味のある方はご請求ください。
退職以降も引き続きセンター長を拝命しましたが、入学式も取りやめになり、授業開始は大幅に延期されました。この間多少時間の余裕もできたので、コロナについて毎日インターネット情報をチェックするとともに、情報源となっている原著論文のいくつかにも目を通しました。この結果、これが知れば知るほど厄介な問題であり、多くの皆さんと同様、先行きの不透明さに大きな不安を感じているのが正直なところです。
コロナ問題は医学・医療の問題にはとどまりません。薬学・化学・生物学はもとより、物理学・数学・工学・経済学・心理学・教育学など、ほとんどありとあらゆる学問分野が関係する、極めて総合的な知識と知恵が必要な問題だと思います。残念ながら私の専門の地球科学はあまり出番がなさそうですが、それでもこの問題に対する科学的な考察は、行動の指針を考える上で重要ではないかと感じています。
例えば人が発する飛沫の飛び方や拡散の仕方は、基礎的な古典力学・統計力学でほぼ理解できますし、感染者の増加の傾向は、数学の基本的な関数や統計処理の知識があれば、日々発表される数値に一喜一憂しなくてもおよその予想がつきます。身近なところでは、マスクの問題があります。通常のマスク繊維の隙間は小さくても5ミクロン程度ですから、0.1ミクロンオーダーのウイルスにとってはザルのようなもの。コロナにおけるマスクの役割は、ウイルスを止めるのではなくウイルスを含む液滴を止めるのが主な役割のはずですが、この点を理解している人が意外と少ないのに驚きます。
我が家でもマスク不足が深刻化し、家内らが毎日マスク作りに励んでくれています。でも数十ミクロンの花粉に対するの同様に、マスクがウイルスもブロックしてくれると思っていたようです。ウイルスとマスクの穴のサイズ感や、ウイルスと飛沫の挙動を理解していないと、せっかくマスクを作っても有効に活用できない可能性があります。また、一定程度の大きさの飛沫をブロックできても、飛沫の水分が蒸発すればウイルスはマスク表面に付着したままでしょう。こうした「乾いたウイルス」は、呼吸により容易に口の中に吸い込まれると考えられますから、(飛沫中のウイルス濃度にもよりますが)こまめに捨てるか洗浄する必要があります。マスコミやインターネットによる情報も、こういった基本的な原理や使い方を、科学的・定量的に示すことは少ないと感じます。
コロナ禍の最中にあって我々退職教員ができることの一つは、それぞれの専門を生かして、この問題を科学的・多面的に考察して、それを一般に向けて発信することではないかと思います。現時点(4月初旬)では、日本においてはコロナによる致死率が比較的低いとされています。それを裏付ける根拠として、マスク文化があるとか、BCGが効いているなど、様々な情報が飛び交っています。もちろんこれらの中には正しいものが含まれる可能性もありますが、その多くは科学的に証明されていない、現象論に基づく希望的解釈にすぎません。我々にできることは、そのような説の根拠や出所をきちんと検証・分析し、その結果をもとに、人々の行動の指針となり得る情報を提供することではないかと思います。
私自身、この半年くらいの間にインフルエンザにかかるとともに、帯状疱疹も経験しました。1か月くらい前までは、「これでコロナにかかればウイルス三冠王」などと冗談を言っていましたが、これらはいずれも免疫力が落ちている証拠。最近の状況を見ていると、明日は我が身と、本気で身辺整理もはじめています。定年後もしばらくは、楽しみながら研究・教育も続けたいと思っていましたが、それも全く見通しがたたなくなりつつあります。
少々暗いご挨拶になってしまいましたが、このような状況の中、今後は自分の専門分野だけでなく、上記のような観点から何らかの社会貢献もできればとの思いを強めています。それなりの覚悟はしつつも、大学人として科学・技術の進歩を信じつつ、この問題の解決に多少なりともお役に立てればと思います。一方で、本稿が印刷になる頃にはコロナ問題が終息に向かい、この挨拶文が笑い話しに終わることを心より期待しています。